できたてガパオライス

ゆすらの日常。毒にも薬にもならないことばたち。

愛>正論>やさしさ

 ここ数日、心の中で正論を振り翳しては人を殴っている。何度も何度も何度も、何度も。

 

 もともと、感情より理性で物事を考えるタイプだ。それは時に人を救い、時に人を傷つけるものだと、頭ではわかっている。それでも私の精神は、人のこころを無視した正しさばかりを追いがちだ。

 

 たとえば、インターハイのスタメンは学年じゃなく実力で決めるべきだと思うし、たとえ合奏前の基礎練をさぼりがちだとしても演奏のうまい人がソロを吹けばいいと思う。実力っていうのは誰の目にもわかりやすくていい。長い年月費やしても新人より劣るのであればそれは自分の努力や才能不足だと、納得できる。

 

 決して人より器用なわけではなく、寧ろその逆なので自分のこのスタンスには自分が一番苦しめられている。それでも私は、人のこころに寄り添ったやさしさよりもぶれない正しさや明確な実力で物事を考えたい。だってその方が誠実だと思うのだ。

 

 「私が悪いんです」って泣く人の何割が本当に自分が悪いと思っているのかわからないし、その人に「そんなことないよ」って声をかける人の何割がそれを本心から言っているのかわからない。お互いにそう思っていないのだとしたら、そのことばのやりとりのなんと不毛なことだろう。

 

 それでもやさしいことばをかけてあげなくちゃいけません、社会人だから。こころにもない謝罪は得意なのに、こころにもない慰めは苦しいばかりだ。大きな声をあげて泣ける人の裏でいくら隠れて泣いたって、それは泣いていないのと同じらしい。残り幾許もないこころのキャパシティを、硬いビニールを引っ張って表面積を伸ばすように無理矢理広げては、上辺だけのやさしいことばをかけ続けている。引き伸ばすたびに薄く、強度が弱くなっていく自分のこころには気づかないふりをしながら。

 

 死ぬなんてこと、滅多にいうもんじゃないって思ってるけど、死んでやろうかと思った。だって限界だった。

 

 それでも、心配して突然連絡とスタバのLINEギフトを送ってくれた親友が2人もいたので、死ぬのはやめることにした。愛だね。

 

 私のなかで、やさしさより優先されてしまう正論に唯一勝てるものがあるとしたら、それは愛かもしれない。親友たちには次に会ったら、文字通りの全身全霊を込めたハグで大きな愛と感謝を伝えたい。

 

 2021年、生き延びてみせるよ。