できたてガパオライス

ゆすらの日常。毒にも薬にもならないことばたち。

靖国通りの落としものと近江屋洋菓子店

 今年の東京の桜は、今がちょうど満開のようだ。火曜日、仕事終わりに友人と待ち合わせて千鳥ヶ淵の桜を見てきた。ライトアップされた桜を見つつ、だいぶん暖かくなってきた夜風にあたりながら飲むお酒は格段においしくて、話も弾んだ。春のうちに春らしいことができていることに安堵する。

 先週末、友人とランチを終えた後に東京駅から御茶ノ水の方まで歩いた。方向音痴な私がさほど地図を見ずとも歩けたのには理由があって、それは前職でよく歩いた帰路だった。当時、もちろん浮かれた気分で帰った日もあるはずなのだけれど、思い返したとき真っ先に浮かぶのは、死にたくて仕方なかった日のことだ。死にたい以外のことが考えられなくて、虚ろな目の先に何かの看板があったことを覚えている。もはや自死することすら億劫で、交差点で信号を待ちながら今ここに車が突っ込んできてくれたらいいのにと考えていた。そんな状態でも朝になれば会社へ行き、深夜まで残業をこなしていた「取り繕えてしまえる自分」がずっと苦しかった。在宅勤務で泣きながら仕事をしても、職場に着けば泣くことはない。そうして終日働いて、最寄り駅に着く頃には徒歩10分弱の家までが帰れず、何度夫に手を引いて連れ帰ってもらったか数え知れない。そんな生き方をしていた頃、何度も歩いたのがこの道だった。

 中央線で2駅分、帰りだけ歩いていたからいつも御茶ノ水からの向きだった。東京駅からの逆方向は新鮮で、もうずっと脳と身体に取り残されたままだったこころを数年越しに迎えに行くような気持ちだった。遅くなってごめん、今はもう死にたくなくなったし、自分に合う会社を見つけてそこに移ることができたよ。それから、当時憎んでいたいくつかのものや人たちのこと、今はもう、憎んでないよ。過去の自分に語りかけるようにも、今の自分に言い聞かせるようにもしながら、ヒールでしっかりコンクリートを踏みつけて歩いた。それは私にとって、過去を清算する行為だった。

 きっともう許せないと思っていたことを許せてしまったことが、いいことなのかどうかはよくわからない。許すためにねじ曲げてしまったものがないとは言い切れないから。だけどもういいと思った。憎しみを生命力に変えなくても生きていけるくらいに心身が回復したので、そろそろ前職への思いや当時の苦しみを断ち切ろうと思う。置き去りのこころを回収して、代わりにそうしたものを靖国通りのあたりに置いてきた。過去の私の代わりに、今頃車に轢かれているかもしれない。

 御茶ノ水まで来て、そろそろ地下駅に潜ろうとしたところで、近江屋洋菓子店を見つけた。これも前職でできなかったことのうちの一つ。職場のすぐ近くなのに、深夜まで働く日々ではついぞ訪れることができなかった。ほとんど衝動的にお店に入る。しばし並び、苺のタルトとおすすめされたアップルパイを買うことができた。回収したこころと、ケーキふたつを入れた箱を持ち、川沿いを歩いて帰る。新卒7年目の最終日、慣れないヒールに疲労を訴え始めた足とは裏腹に、こころはとても晴れやかだった。

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