できたてガパオライス

ゆすらの日常。毒にも薬にもならないことばたち。

純愛と大義、生きることにおける加害性について

 呪術廻戦0の地上波初放送を観た。

 そういえば2年前に実施した呪術廻戦履修チャレンジはめでたく成功し、その冬はこのアニメを薦めてくれた友人と劇場で呪術廻戦0を観た。

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 当時は仕事のストレスでぼんやり死にたかったりなんかして「帰り道呪霊に襲われちゃうかも」なんて冗談で話した記憶がある。下着を買った帰りだったので、今ここで呪霊に襲われて頭を捻りつぶされたりなんかしたら、最悪「身元判明の唯一の手がかりはバストサイズのみで」なんてことになりかねない、なんて話もした。結局呪霊には襲われなかったので、私の頭蓋骨とバストサイズ情報は守られた。

 呪術廻戦0をざっくり、本当にざっくり話すと、「純愛」を掲げた少年と「大義」を掲げた青年の戦闘シーンがある。青年の掲げる大義は、所謂主人公サイドの人間たちからすれば悪で、だから戦わざるを得なかった。たとえ、それがかつての(そして今も)たった一人の親友だったとしても。

 誰かにとっての正義が誰かにとっての悪であることは、世の中にいくらでもあって、それを取り上げた小説や歌、ドラマも多い。それから、生きているだけで誰かを加害することも。

 かなりの低確率で予期せぬ悲しい経験をした友人の話を聞いた。彼女はその境遇に陥ってから、そうならなかった周囲の人間の言動に傷つき「無自覚の加害性」を自覚したと言う。「だから私はそうしない」と言った。それ自体を否定するつもりは全くないのだけれど、実のところ「加害者にならずに生きる」ことは殆ど不可能だと思っている。

 たとえば、両親が仲良しで存命なこと。たとえば、家が津波の被害に遭っていないこと。大学まで通ったこと。脂肪のつきづらい体質であること。スポーツが得意なこと。大きなことから小さなことまで、そうでない人にとっては羨望の、あるいは妬みの対象になり得る。生きている以上、どんな特徴も(それは「特徴」であるからこそ)誰かにとっては持ち得ないものであって、そのことが誰かを傷つけることは避けられないのだ。だけどその特徴自体は悪いものではなく、恥じるべきものでもない。だから家庭環境がよく両親が存命の人は誰に遠慮することもなく家族仲良くすべきだし、太りにくい体質なら存分に好きなものをお腹いっぱい食べるのがいいと思う。

 その分せめて、その加害性に自覚的に生きねばと思う。己の、そして他人の持つ残酷な加害性を自覚することが、私たちに持てる唯一の誠実さであるように思うのだ。無論、自覚的であれば誰かを傷つけても仕方がないとか、そういうことを言うつもりはないけれど。傷つけることも、傷つけられることも、ぶつかることも、どうしたって避けられないのが人生だと思うから、だからせめて誠実には生きていきたい。

 彼もそう思ったんじゃないかなあ。だからこそあの戦闘シーンで「純愛」に対してすぐに「ならばこちらは『大義』だ!」って返しが出たんだと思う。明日からのアニメ2期、たのしみですね。