できたてガパオライス

ゆすらの日常。毒にも薬にもならないことばたち。

2022年2月、最近のこと

 気楽に思いの丈を綴ろうと思ってアングラブログを始めたのに、気づけば大層なものを書かなきゃと肩肘張って結果何も書けずにいる。つらつら書いてもいい、というかもとよりそのための場所だったことを思い出したので、ここ最近考えていることを記録することにする。

 

1.お正月生まれの希死念慮のこと

 年末年始、笑っちゃうくらい絶望的な事件があった。それはまだ解決しておらず、お陰で年明けから希死念慮ってやつがなかなか消えてくれない。誰にでも話せる内容ではなかったので、大学時代の親友ひとりを選んで話を聞いてもらった。正月早々私の毒のような泣き言を全て受け止めてくれた親友、もしいつか2人ともどうしようもなく死にたくて堪らなくなったら、手を繋いで一緒に死のうと思う。

 迷惑かけすぎて申し訳なくなると自己嫌悪でさらに死にたくなるから、私たち互いにはどれだけ弱音吐いても大丈夫だよって協定を結んだ。死にたくなったら一緒に死んでくれる人、互いにどれだけ迷惑かけてもいいって決められた人、そういう人がいるという心強さで、もう少し生きてみようって思える。まずは春までちゃんと生き延びよう。

 

2.死ぬ間際のこと

 「死にたくなったら一緒に」なんて言ったけど、本当に死ぬ時はひとりだってこと、ちゃんとわかっている。友人たちと会うたび合言葉のように言っていることばがある。「人生は個人戦」「死ぬときはみんなひとり」。どれだけ支え合って生きていても、死を共にすることはできないし、生きているうちでも大切なことは自分ひとりで決めて実行しなくちゃいけない。それは今の私にとって救いだ。紛れもなく。

 子どもの頃、北のミサイルや、隣の県の原発から漏れ出た放射線のことがニュースになるたび、目の前にないそれらにひどく怯えていた。友人たちに「そういうので死ぬならみんな一緒だよ」と言われたことで、必要以上にそれらを怖がることはなくなった。死を遠ざけたわけでも目を逸らしたわけでもない。ただ「ひとりではない」ということ、その事実に救われていた。

 だけど今は「死ぬときはひとり」という事実に救われている。誰かを傷つけたり、傷つけられたり、気を遣ったり、遣われたり。そういう煩わしさから最期には解放される。日々、人一倍些細なことに落ち込んだり喜んだりして生きているのは、そうした最期の瞬間のためなのかもしれない。そう考えると、この悩んでいる時間もちょっぴり愛おしいかもしれない。嘘、やっぱり人間関係であんまり悩みたくはないかな。

 

3.プロポーズから2周年を迎えたこと

 先日の2月2日が、プロポーズ2周年記念日だった。互いに地方出身者でこのご時世での実家挨拶に時間がかかったことや、一度挙式を延期している(まだ挙げていない)こともあり、気づけばプロポーズは既に2年前の出来事になってしまった。結婚の高揚感はあらかたそこに置いてきた。

 最近、結婚生活をうまく続ける秘訣は「適度な無関心」なんじゃないかとぼんやり思っている。私も大概協調性がないけれど、彼もなかなかマイペースだ。仕事の都合で生活リズムが合わないこともあり、食事は別々。寝床も別。結婚生活というより「ルームシェア」「同居」といったことばの方が適切なように思う。

 そんな相手なので、私が些細なことで落ち込んだり泣いたりしていても、基本的にはノータッチだ。たまにそれを薄情に思ったりもするけれど、私も私で本当につらい時や泣きたい時はひとりにしてほしいタイプなので実はこの距離感が適切だったりする。あまりに心配されてしまうとうまく落ち込めないので。

 それに完全な無関心というわけではない。限界まで凹みまくったらゆるい励ましでうまく私の力を抜いてくれるので、彼はもはや母親と同じくらい私の人生に欠かせない人だなと思っている。本人には伝えてないけど。

 

 

 書くことなんて何もないと思ったけど、書き出したらいろいろと出てきた。立春も過ぎて日も長くなりつつあるというのに、今日は大雪予報だ。お陰でヒーターの前から離れられない。

 次にこうした日記を書くときは、今よりもう少しあたたかく、そして私の沈んだ気持ちももう少しましになっていればいいと思う。