できたてガパオライス

ゆすらの日常。毒にも薬にもならないことばたち。

羽生結弦選手に勝手に投影している過去の自分のこと

 北京オリンピックで4位になった後の、羽生結弦選手の言葉がずっと気になっている。


 「これ以上ないってくらい頑張りました...報われない努力だったかもしれないですけど」


 アナウンサーも、ネットニュースのコメント欄も、それを否定する言葉で溢れていた。「そんなことない。羽生選手の活躍に多くの人が勇気をもらった」と。だけどその慰めのうちどれだけが、本人に真っ直ぐ受け止められるのだろうと思う。


 元来、彼は非常にストイックな人だ。妥協や敗北を許さず、努力を怠らず、そしてそれ故のプライドを確かに持っている。ストイックな人というのは、他人の評価軸で生きていない。いくら誰かに甘やかされても、自分で自分を厳しく律するからだ。そんな人が、自分で認められないこれまでの努力の意味を他人につけられたとて、それは彼にとって救いにはならないだろうと思うのだ。


 あんまりだと思う。幼い頃から人生をフィギュアスケートに捧げてきて、二十年以上の我慢も苦労も重ねてきた彼の、その努力が本人にとって意味づけられないものだなんて。世界一の称号、金メダルまで彼は獲得しているというのに。


 だけどその一方で、どれだけ周囲に認められても自分で自分を認められないことは存在するのだと、身をもって知っている。一般人の私は、同い年の彼よりもずっと早くに自分に見切りをつけてしまったから。


 私が卒業した大学は、国内で一般的に見ればそこそこのランクで、所謂「いい大学」と言われることもある。それでも私は、その大学にしかいけなかった自分の学力にコンプレックスを抱いている。全ての受験校の結果が出た時、これまでの努力は本当に報われない、無駄なものだったと思った。卒業式の前日、朝から母親に激昂したこともよく覚えている。「こんな大学にしか受からなくて、本当に落ちこぼれの駄目な娘と思ってるんでしょう!?」と。その日は朝も夜もひどく泣いて、だから卒業式の写真に映る私はどれも真っ赤に目を腫らしている。あの頃の自分は、分野は違えど確かにアスリートだったと思う。


 烏滸がましくも羽生選手と重なる点をもうひとつ挙げるとすれば、試合後から彼が見せるあの凪いだ様子だ。


 常に自分に厳しい彼は、これまで試合後のインタビューで自分を律する言葉を口にすることが多かった。今回の試合で見つかった自分の課題や反省など。そしてそれを次に活かします、といった言葉をよく耳にした記憶がある。


 そんな彼が、今回の試合後に繰り返しているのは「この試合のために自分がどれだけ努力したか」ということだった。そして彼は、今回の自分の結果に納得しているように見えた。それを「言い訳がましい」と非難する声も見られたが、おそらく言い訳とは違うのだろうと思う。元来自分の敗北を許せないタイプの彼が納得しているのだとすれば、それは彼が悔いを残すことがないほど努力を尽くしたからに他ならない。後悔がないほど努力し尽くすなんてこと、そうそうできることではない。ストイックな彼なら尚のこと。それをやってのけたと言うのであれば、まずはそのことに対して私たちは敬意を表するべきだろう。


 その上で私が悲しいと思うのは、「彼が悔いを残さないほど努力した」上で「メダルを獲れなかった」という事実についてだ。会見では彼の選手としての進退について明言はなかったが、この事実は彼が将来について考える時、多かれ少なかれ影響を及ぼすのだろうと思う。


 先述した通り、私は自分の進学した大学に納得がいっていなかった。入りたかった大学に受からなかった場合、浪人という選択をする人もいるだろう。そも私は、受験生の頃ずっと志望校を1校に絞っていた。当初は滑り止め受験も考えておらず、「ここに落ちたら浪人する」という覚悟だった。


 にもかかわらず私が志望校を諦めて、合格した大学に進学したのは何故か。それは自分の限界をそこに見出してしまったからだ。羽生選手の言葉を借りるとすれば本当に、「これ以上ないくらい努力した」のだ。「報われない努力だったかもしれない」が。それはもう、浪人であと一年努力を続けたら自分はきっと死んでしまうと思うくらいに。それは当人である私にだけわかる努力の結果であり、自分自身の限界だった。そうして私は、センター試験を終えた後にあっさりと滑り止め校の受験を決めた。


 羽生選手のあの凪いだ瞳は、あの頃の私に似ている。当時は不思議と絶望感よりも肩の荷が降りた解放感の方が大きく、受験生活の中で一番楽しんで勉強ができた時期だった。もし今、彼が同じ状況にあるのだとしたら、彼にだけは見えているのかもしれない。彼の選手生命を終えるタイミングが。


 だからこそ、今の彼の様子が気になって仕方ないのだ。彼が引退してしまう気がして。


 これは大層身勝手な話だが、私自身がこうして挫折や絶望、諦めを経ているからこそ、彼に過去の自分を投影してしまっている節がある。同い年で、出身地も同じで、おそらく性格も似ている彼に、必要以上に移入してしまっている。結局私は、過去の自分の努力が無駄なものだったとはどうしても信じたくなくて、だから彼にはずっと輝き続けていてほしいのだろう。既に自分が失ってしまった情熱やストイックさ、ひたむきさを持つ彼を、ずっと眺めていたいのだ。観客席という、つらさも何もない場所で。


 会ったこともない彼にここまでの理想をぶつけるのは、匿名で彼を「言い訳がましい」と非難する人々と何も変わらないのだろう。この世に数多くいる、羽生結弦個人と一切関係のない、自分勝手な観客(或いはファン、或いはアンチ)のうちの一人だ。


 だから本当はこうしたことをネット上で匿名で書くことも適切ではないのかもしれないけれど、私の気持ちの整理としてここに記録しておく。私はこれからも四回転半に挑戦し続ける羽生結弦選手を見ていたいし、同じだけもう楽になってゆっくり休んでほしいとも思っている。いずれにせよ、彼が何らかの決断を下し、その道に向かって進むのを、これからもひっそりと応援し続ける所存だ。