できたてガパオライス

ゆすらの日常。毒にも薬にもならないことばたち。

アンリ・マティスと少女たちの夜

 画集のようだと思っていた少女はしっかり人並みに意地が悪くて、かなしみだけではなく当然怒りも抱えており、やはり現実は芸術ではないのだと思い知らされた。そもそも画集をまともに読んだことはなかった、と、気がついたのは友人の家でマティスの画集を見せてもらった時だった。

 美術館をたのしいと思えるようになったのはごく最近のことだ。たのしいと言ってもこれはなんか好きだなあ、これはわからないなあ、くらいのもので、小学生の校外学習みたいなものだけれど。絵画がわかるようになったというよりは、わからないことをわからないままにたのしむ術を身につけたという方が近いかもしれない。春が好きなのとほとんど似た理由で、印象派の絵画を好いている。

 先日、美術が好きな友人2人と会った。マティスの画集を見せてくれた友人はパリ旅行から帰ってきたばかりで、現地で見てきた絵のことを聞かせてくれた。どの絵がよかったか、最近どんな絵画展に行ったか、今の自分のブームは何派か。彼女たちが興奮気味に話すのを聞いているのがおもしろくて、終始一人でにこにこしていた。「色の配色が完璧」「かわいい」といったコメントの裏にあるものが私にはわからなくて、でもそうしたものを言葉で表そうとしてしまうのは私のよくない癖かもしれなくて、そんな発見がおもしろかった。知らない画家の話だとしても、もっとたくさん聞かせてほしいと思った。2人は美術館で1日つぶせる人間で、私は正岡子規記念博物館に半日滞在した人間なので、おそらく根底にある芸術への熱のようなものには似通った部分があり、ただその筆の形状が異なることが私に新たな学びや気づきを与えてくれていた。似たタイプの友人同士で高い共感性や固有名詞の散りばめられた思い出話で盛り上がる時とはまた違った高揚感が、あのテーブルにはあった。

 あのたのしさを思い出し、私が好ましく思っているのは未知に触れることとその興奮であり、友人自身を純粋に好くことができていないのではないかという思いがふと過った。が、友人を好ましく思うのにそこまで明確な理由は要らないのかもしれないと思い直す。喩えるならそう、絵画を愛する彼女たちのように。単に未知が好きなのではなく、彼女たちが与えてくれるから好きなのだ。たくさん話を聞いて、満たされた気持ちで帰路につく。友人でい続ける理由は、それだけで十分なように思えた。

 2人に駅まで送ってもらい、興奮を抱えたまま終電で帰る。今回は3年越しの再会だったけれど、次に会えるのはきっとそう遠くないだろう。そんな確信に似た予感が、確かに胸にやどった夜だった。