できたてガパオライス

ゆすらの日常。毒にも薬にもならないことばたち。

非接触ディストピア

 俺やっぱ、馬鹿だからかな。高いとこ登ると落ちつくわ。

 そう言ったあいつは、馬鹿よりもむしろ煙のようだと僕は思った。

 煙は死の象徴であり、生の象徴だ。幼い頃、夏休みの度に訪れた祖父母の家は、祖父が亡くなってから延々と煙が漂うようになった。それはいつでも流れているようで、気づくと途切れていたりもした。だけど大抵は、生前祖父がそうだったように、静かにどっしりと、そこにあった。それは祖父が確かに生きていた証で、同時にもう生きていない証でもあった。

 あいつはそんな煙のように、生と死を同時に感じさせる、不思議な男だった。きっとそんなことを本人に言おうものなら「また辛気くせえこと考えてんな!」って一笑に付されてしまうだろうから、心のなかでそう思っていただけだけど。

 飄々として掴みどころがなくて、いつもそこにいるようでふっと消えてしまいそうな、あいつは僕にとってそんなやつだった。

 「お前さ、抱いたことあるか。女を」

 いつものようにあいつの好きな高い屋上で過ごしていれば、ふいにそんな声をかけられた。あいつにしてはめずらしい話題だった。僕達は色恋云々にはさして興味がなく、そんなところがあいつと一緒にいて居心地がいい理由のひとつだったから。

 あいつは続けた。僕の返事は特に望んでいないようだった。

 「最悪だよ。どこもかしこも柔らかくて、甘いんだ。まるで毒だ。首だって腕だってすぐに折ってやれると思ったし、身体の構造上、こう、攻めているのは男だろう。だけど俺、殺される、って思った」

 いつの、誰との話をしているんだろう。とぼんやり思ったが、そこまで興味はなかったので聞かなかった。それよりも、あいつがこんなに流暢に話すことがめずらしいと思った。胸ポケットから取り出した煙草に火をつけながら、視線をやって続きを促す。

 「・・・・・・Suicaってさ」

 突然話が飛んだのかと思い、思わず顔を上げたがどうやらそうではなかったらしい。あいつは構わず話し続ける。

 「Suicaって、改札通る時、翳すだろ。あれって、まあだいたい押しつける人が多いけど、実はちょっと浮かせてても反応するじゃんか」

 「ああ、まあ、確かに」

 「俺は全部、そうなったらいいのにって思うよ。直接触れなくてもさ、ちょっと近くに手をやるだけで目的を果たせるみたいな。非接触社会っていうの?」

 突拍子もないアイディアのようにも聞こえたが、その気持ちはわからないでもなかった。あいつとは違う立場で、僕も肉体の接触に嫌悪を覚えたことがあったから。

 「・・・・・・セックスも?」

 「セックスも。人の体温も身体の柔さも、全部知りたくなかったよ。街中を平然と歩いてるいったい何人が、それを知ってるんだ?そんなことをした手で、パンを捏ねて、書類を作って、車を運転してるっていうのか?狂ってる!」

 ほとんど泣きそうな声で叫び、あいつは自分の顔を覆った。僕はあいつの純然たる精神世界のことを思う。そこに肉欲はなく、あるのは無機質なことばや感情のみ。その中であいつは誰に縛られることもなく、自由にゆらめいて生きているのだろう。煙のように。

 「・・・・・・わかるよ」

 残念ながらあいつとは全く異なる理由で、そんなことを口にする。僕は男女平等のためには双方の利益を合わせるのではなく、そのすべてをなくしてしまえばいいと考えている。レディス・デーに合わせてメンズ・デーを作るのではなく、レディス・デーの撤廃を。女だけが男と性交できるのなら、性交の禁止を。

 そんな仄暗い考えは悟られないよう、僕は続ける。

 「肉体の接触がないと子孫を遺せないなんて、馬鹿げてるよな。しかもそれが、男と女じゃないといけないなんてさ」

 後半の本心がなるべく軽く聞こえるように話す。未だ俯いているあいつの顔は見えないが、おそらく気づかれてはいないだろう。

 するなよ、セックスなんて。別れちまえよ、女となんて。

 浮かんでくるあらゆることばのどれもを口には出さず、僕はただあいつの隣で煙草をふかす。肩を叩いたりはしない。あいつはしばらくそうして顔を覆っていたが、やがておもむろに顔を上げて立ち上がる。

 「帰るか」

 この話はもう終わりらしい。僕は小指の第二関節ほどの長さになった煙草をもみ消して立ち上がる。それでもあいつはまた、女を抱くかもしれないな、と漠然と思った。自分から求めない分、あいつは相手を強く拒めないからだ。セックスの後にこっそりトイレで吐くあいつの姿を思い浮かべる。可哀想なやつ。女なんか好きになるから、そんなことに苦しむんだよ。

 いつの間にか駅に着いていて、それぞれの路線の改札前で別れる。あいつの顔色も幾分か戻ってきていて、僕はそれに安堵と少しばかりの絶望を覚えた。

 「おやすみ」

 互いに背を向けて通る改札に、乱暴にSuicaを叩きつける。あいつに手荒く欲をぶつけてしまいたいという僕の衝動は、軽快な電子音の裏でホームの雑踏に紛れていった。