できたてガパオライス

ゆすらの日常。毒にも薬にもならないことばたち。

表情の多様性を認めろ

 表情が感情ほど動かない。ついでに声色にも感情が乗らない。幼い頃から、不機嫌だと勘違いされることがよくあった。学校帰りにすれ違った近所のおばさんには体調不良と思われてはちみつのど飴を持たされ、帰ったら緑茶でうがいするよう言い渡された。サークルでは「おはよう!怒ってる?笑」が私への挨拶として定着した。うれしいことがあって気分がよかった一日の終わり、上司に「今日ずっと怖い顔してたから話しかけられなかったよ」と言われた。

 

 会社の新人研修では私だけ、毎朝鏡を見て笑顔のトレーニングをするよう言われたし、どのコミュニティにも1人2人はいるお節介焼きにも、何度もそうしたトレーニングに付き合わされた。aikoのmilkか?『今日も鏡で笑顔の練習 上手く笑わないと』って?余計なお世話だ、放っておいてほしい。

 

 別に笑えないわけじゃない。笑いたくない時に笑わないだけだ。私に笑顔の重要さを説いてきた人たちはみな挙って「ニコニコしてた方がうまくいくし、いいことばっかりじゃん」と宣った。そんなことない。まず私の精神力が減る。

 

 それから、「笑顔=善」「真顔(不機嫌顔)=悪」という方程式の暴力に、いい加減気付いてほしい。真顔を不愉快に思う人がいる一方で、おもしろくもないのに無駄にニコニコしている人を不愉快に思う人間もいる。私がそうだ。

 

 だって、不誠実だと思うのだ。心の中で悪態を付きながら、上辺だけは笑みを浮かべているなんて。しかも大抵それは胡散臭くて「あ、これ作り笑いだな」って気づいてしまう。そんなクオリティの笑顔をつくることにメリットがあるとは到底思えないし、それなら笑いたい時だけ素直に笑う人の方がよっぽど誠実だと、私は思う。だから私は笑顔のトレーニングなんてしないし、不必要に愛想笑いをたたき売りしないのだ。

 

 それでも友人は困らないほどできたし、恋人もできたし、周囲はみなやさしい人ばかりだ。表情筋が硬いことで生きるのになんら不都合はない。ヨーロッパのスーパーを見ろ、誰も無駄に笑わないし何なら立ってすらいない。それでもレジは滞りなくその機能を果たしている。

 

 あらゆる場面でダイバーシティや平等を声高に唱える人に笑顔を強制されるとうんざりしてしまう。あなたの前で私が笑顔でないとすれば、それはあなたといるのが楽しくないからですよ。

 

 心無い揶揄や善意の押し付けのようなアドバイスに何度も傷ついてきたけれど、中学の先生だけはそうした言葉を使わずに話しかけてきた。「なんだか今日アンニュイだね?」と。不機嫌や怒っていると言われればそれは違うが、生きることに常に倦怠感を感じている節があるので、アンニュイという表現はぴったり当てはまると思った。そういえばあの先生の担当教科は国語だった。ああいう、人を傷つけない言葉選びが自然とできる人間に私もなりたいと思っている。

 

 とはいえ私のこの動かない表情で完全に感情を察しろというのも一種の暴力なので、こうして言葉を紡いで私なりの方法で気持ちを伝えられるよう努めてはいる。おもしろくない時に笑わないのと同様、フィクション以外で嘘の言葉を認めることもそうないので、その点に関しては見たまま信用してもらえればと思う。