できたてガパオライス

ゆすらの日常。毒にも薬にもならないことばたち。

愛は食卓にあるなんて言うなよ

 noteより肩ひじ張らないことばたちを吐き出す場所がほしくて、はてブロ開設してみた。と言っても、今のところ明確な使い分けを考えられていないので試験的に。すぐに消しちゃうかも。

・・・ 

 エッセイを書く予定があり、くどうれいんさんの『わたしを空腹にしないほうがいい』を本棚から引っ張り出してきた。いいエッセイを読むといいインスピレーションをもらえる気がして。「愛は食卓にある。」というキューピーのキャッチコピーが好きだという文を読んで、ふうん、それなら我が家に愛なんてないねと思った。

 

 自炊が苦手だ。ほんとうに。「共働きだし、残業も多いから仕方ないよ」というフォローももらい飽きた。実際それは事実だけれど、件の社会情勢で毎日在宅勤務だった一年前も、凝った自炊なんて全然しなかったし、する気も起らなかった。なので時間や体力の問題ではないことは自覚している。彼と同棲を始めて、彼のお母さんや友人に「やっぱり料理は彼女がしているの?」という趣旨の質問をされるたびに、恥ずかしい気持ちで縮こまりながら「いやあ、一緒にですかね...」なんて小さな声で答えている。

 

 そんなわけで、「自炊はストレス発散にもなるしいいことしかない」とか「新婚なので自炊を毎日頑張っている」とかいう人を見るたびに、ひねくれた気持ちになっている最近だ。

 

 私の母親は料理が得意な人だ。毎日たくさんの種類の手料理を食卓に並べてくれたし、中高の6年間お弁当をつくってくれたし、手作りのデザートやお菓子もよくつくってくれた。料理だけでなく、車での送り迎えもしてくれたし、祖父母の介護もこなしていた。私がこの世で最も尊敬する女性だ。

 

 そんな母のようになりたいという思いがずっとある。いつか生まれてくるであろう我が子には毎日おいしい手料理を食べさせてあげたいし、車でいろいろなところに連れて行ってあげたい。だけど現実は、自分と彼のご飯もまともにつくらず、車はゴールド免許の持ち腐れだ。まともに公道を走った回数は手で数えられるくらいしかない。共働きだとか、東京暮らしだとか、環境の差異はあるけれど、このままじゃ思い描いた理想の母親に(そして妻に)なれる兆しがまったくない。ほんとうにかなしい。

 

 同年代の友人たちよりすこし早く2児の母になった親友のことを思う。長女が生まれて会いに行ったとき、愛の鐘が鳴る頃にうたたねをし始めた子をベビーベッドに寝かせ、部屋を少し暗くして夫婦の夕食をつくっていたあの姿を。たしかその日の献立は親子丼だった。彼女にも彼女なりの葛藤が日々あることを知っている。それでも、そのうえで、私の目に映る彼女はたくましくて美しい、立派な母親だった。彼女の家の食卓には間違いなく愛があるのだろう。

 

 いいなあ、愛。我が家も食卓に愛をならべたい。とりあえず、私のタイ料理ブームにまんまと影響された彼と一緒に先日ナンプラーを入手したので、近いうちにカオマンガイかガパオライスに挑戦してみようと思う。実現可能性は、今のところ50:50だ。