できたてガパオライス

ゆすらの日常。毒にも薬にもならないことばたち。

ぜんぶ意思だよ

 前の更新から2か月が経っていて、この期間、少しずついろんなことに悩んでいたような気もするし、大したことを考えていなかったような気もする。社会人になってからこっち、自分の気を重くさせる物事を忘れるのがどんどん上手くなっていて、お陰でだいぶ生きやすくなったのだけれど、ふり返った時に特筆すべきことがないように錯覚してしまう。

 そういえば一人、知人とお別れした。もう何年も、下に見られたり軽んじられたりしているのは感じていたけれど、特に自分に害もないのでそこそこに交友関係を続けていた子だった。人から舐められるのは私にとってめずらしいことではないので、害がなければ基本そのままにしている。だけど私の騙されやすさにつけ込んで、共通の友人のネガティブキャンペーンをあまりに吹き込んでくるのでそろそろ嫌になった。一度嫌になったら、もういいやって思って、思い立って連絡先をすべてブロックした。突然のことで相手は何が起こったかわかっていないと思う。別にどうでもいい。

 どうでもよくはあるのだけれど、せっかくなので自分の性格と今回の出来事について自分なりに分析してみた。個人的に興味深かったので記録として残しておく。

 彼女の一番の思い違いは、私のことを「すべてを盲目的に信じ込む人間」だと思っていた点にあると思う。言えば何だって信じると。さすがに無理があるでしょう、そんなのどこかで綻びが生じるし、それに気づかず二十何年生きてこられるほど能天気ではない。というわけで私は自分の「嘘を見抜くのが苦手」という性格を把握した上で、「信じたい人の言うことを信じる」という生き方を私の意思で選択している。つまり信じるのをやめようと思えば人を疑うことだって普通にあり得る。そして残念ながら、彼女は私にとって「信じたい人」には当たらなかった。

 それからもう一つ、私が人を信じる気持ちはやさしい世界を望む思いからきているということ。人の悪意を信じたくないから、多少無理があったとしてもやさしい嘘の方を信じようとしてしまう。だから基本的に私の「信じる」は、ネガティブキャンペーンには適用されない。他人の愚痴を聞いているとき、常に私はセカンドオピニオンを受ける気持ちでいる。そんな私が「あの子実は性格悪いよ」なんて言葉を信じるはずはなかった。彼女がもし、本心では嫌っている子のことを「あの子のこと好きなんだよね」と言ったのなら私を騙せたかもしれないけれど。

 別に何だって鵜吞みにしているわけじゃない。ただ真偽について明らかにする必要性を感じない場合、その時々で私が信じたいと思った方を信じているだけ。意識的につくられた、とてもやさしい世界だ。

 彼女はその世界に相容れなかったので、お別れをした。自分と同列に思っていた友人が自分の世界から消えれば悲しさや寂しさも感じるだろうが、見下していた人間たちの中から一人抜けたところで、彼女にとっては大した痛手にもならないんじゃないだろうか。私とは切り離された、見下し見下され、騙し騙されの世界で頑張って生きていってほしい。さようなら、どうぞお元気で。