できたてガパオライス

ゆすらの日常。毒にも薬にもならないことばたち。

ツイ廃撲滅プロジェクト2023

 Twitterに閲覧制限がかけられてから数日。初日に何も見られなくなって、3日目にはタイムラインが戻ってきたらしいけれど、また制限がかかるのが怖くてほとんど見られずにいる。iPhoneのロックを解除すればそのまま無意識でTwitterのアプリを開いてしまうくらいには依存しているので、見られなくなったことで他のことに使える時間はかなり増えたのではないかと思う。有効に使えているかは別として。

 企業アカウントのAPI呼び出し回数が多く、通信が逼迫し始めたので試験的に制限をかけたとかなんとか聞いた。わかるようでよくわからないし、本当かどうかもわからない。毎度のことながら真相にさして興味がない。ただ、これが世界的に秘密裏に動き始めた「ツイ廃撲滅プロジェクト」だったらどうしようなんてことをぼんやり空想する。ツイ廃達を被験者として、つぶやきの場を失った際の動向を探る目的があったとしたら?強大になりすぎたTwitterの場を近い将来解体するための第一歩なのだとしたら?

 だからといってどうということもないのだけれど。ツイートできないとこんなしょうもないことをつらつらと考えてしまう。

 ちなみに私が一番長く使っているTwitterアカウントは趣味用のもので、おそらく12~13年前に作ったものだ。当時中高生だったフォロワーは皆大学や専門学校を卒業して社会人になり、結婚や出産をする人も出てきた。そんなタイムラインで私はアニメの考察やら日常で考えたとりとめのないことやらを、つらつらと書き連ねている。主に壁打ちで、思考の整理と記録の意味合いが大きい。数年前の考察をたまに検索して見返しては、過去の自分に同意したり「いややっぱりこうじゃないか」と否定したりしている。オタク人生において考察の記録はなかなかに重要だ。

 とはいえもし本当にTwitterがサービス終了したら、あるいは有料会員しか使えないものになったら、私を含む多くの人はそれぞれに新しい場所を見つけてつぶやきを落としていくのだろう。不便だなあなんて嘆いたりしながら。その証拠に、10年前タイムラインにたくさんいた同級生たちはもう1割ほどもその姿を見せなくなっている。どうせみんないなくなるんだよな、最後には。アメブロも@peps!も前略プロフも、そうやって過去の遺跡になっていった。

 このはてブロだっていつ閉鎖を迫られるかわからないし、その前に私が飽きて更新しなくなる可能性も大いにあり得る。現に最後に更新したのは3か月前だし。だけど今のところ飽ききってはいないので、たまにこうして近況などを綴っていこうと思う。Twitterに放流しているアニメの考察たちも、本当はこうして一箇所にまとめられるといいのだけれど。

 とりあえず、手持無沙汰な私がくだらない記事をここで量産してしまう前に、Twitterは早く制限を解除してくれたらうれしい。

"やさしさ"を教えてくれたバンド

 気づいたらもうずっとブログを更新していなくて、大きな出来事があった時にしか書けていなかった。日々いろんなことを確かに考えて生きているはずなのにね。自分に強要して書くものじゃないと思ってそのままにしていたけれど、PCで記事作成画面を開いてみたらなんとなく書けそうな気がしたので、たまにこうして意図的に機会を設けるのも良いかもしれない。

 今日は関ジャムのBUMP OF CHICKEN特集を観た。現在活躍中の多くのアーティストが口を揃えて「尊敬している」と話していて、彼ら一人一人のBUMP愛が大きくて、あらためてBUMP OF CHICKENというバンドの偉大さを実感した(余談だが私の周囲のBUMPファンは自分も含め往々にしてBUMPや藤くんに対してどでか感情を抱きがちで、私はその特性をとても愛おしく思っている)。

 BUMPへの思いは度々ブログにしてきたけれど、自分の中で大事にしているエピソードがあって、それを何度も思い返しているので、すぐに触れられるようにここに記しておくことにした。

 小中学生の頃、SCHOOL OF LOCKというFMのラジオ番組をよく聴いていて、それにBUMPも出ていた。2007年にorbital periodというアルバムがリリースされた時、そこに収録されている曲の背景を藤くんが語った。詳しくは番組のブログが残っているので、ぜひ読んでほしい。

www.tfm.co.jp

 やさしさの定義について話していた回。「やさしさ」というのは偶然生まれる「現象」だという。そこに意図的なものが、たとえば自分をよく見せたいという下心なんかが含まれれば、それは「偽善」で、つまるところエゴなのだと。

 これを聴いていた頃の私は中1で、本当に驚いたのを覚えている。嘘に聞こえるかもしれないけれど、やさしさについては私も同じことを考えていたから。当時の自分は、他人のやさしさよりも自分のやさしさが信じられなかった。やさしいねと言われることもあったし、自分でもそうあろうとしてきたつもりだった。でもそれは、そうあれば褒めてもらえるとか、好いてもらえるとか、そうした自己保身からくるもので、それが自分をやさしいと称してくれている人達への裏切りのような気がしていた。

 だが彼はこう続けたのだ。『エゴなんて素晴らしいじゃん!超カッケーじゃん!』と。小難しいことを考えがちとよく言われていた自分と同じ考えを持っている人がいたということが既に驚きだったけれど、よくよく聴いてみれば「同じ考え」ではなかった。同じ思考を経て、さらにその先で私の葛藤も自己嫌悪も、すべてを肯定してみせたのだ。藤原基央さんという人は。

 それは私にとって、紛れもなく救いだった。たかだか13歳で、すこしばかり勉強ができるからといって物事をわかった気になっていた私に、自分の先でもっと広い世界があることを教えてくれる大人がいるのだと知った瞬間だった。

 それから私は、自分のやさしさを疑いそうになるたびに何度も、BUMPの歌に救われている。

皆 良く思われたいだけ 自分自身を売り込むだけ

優しくなんかない そうなりたい 僕が一番ひどい

ねぇ 優しさってなんだと思う もう考えなくたっていいや

本当さ 僕ら知らないうちに 僕らで作ったよ

二人で出会ったよ

優しさの真似事のエゴでも

出会えたら 無くさないように

優しさの真似事は優しさ

出会えたら 迷わないように

出会っている 無くさないように

 エゴなんて超カッケーじゃん!って。やさしさの真似事だって間違いなくやさしさだよって、言い切ってくれるのがうれしくて、心強い。歌詞を何度も自分に言い聞かせては、真似事だったり本物だったりするやさしさを抱きしめて私は今日まで生きている。

 だから虚勢でも自己保身でも、私は私の大好きな人たちにこれからもやさしくありたいし、大好きな人たちのやさしさはやさしさだって信じる。その方が自分を取り巻く世界はちょっとやわらかいものになる気がするから。

 自分の生き方の根源にもなっているBUMP OF CHICKENへの愛はもはや崇拝にも近くて、冷静な人が見たらちょっと気持ち悪いかもしれない。だけど子どもの頃に大好きだった絵本のように、ずっと身に付けているお守りのように、こうした思いをこっそり抱えていてもいいよね。誰かを傷つけるわけでもないし。

 このブログを書き終えたら、この気持ちはまた大切にくるんで、自分のこころの核になる場所にそっとしまっておこうと思う。

==おまけのひとりごと==

 これを書いていて気付いたけれど、先述のブログを書いた時藤くんは28歳だ。そして今の私が28歳。あまりの偶然にまた驚いてしまった。かつて13歳の私が藤くんのことばに救われたように、これから先私が紡ぐことばが誰かを救ったり、勇気づけたりすることがあるかもしれない。そうなったらうれしいなと思いながら、これからも創作活動を続けていく所存です。

あまりに無力な、

 大好きで大切な友人のために何ができるかを、ずっと考えている。
 友人が今悲しんでいるかもしれなくて、泣いているかもしれなくて、だけど私はそれを案ずることしかできない。途轍もない無力感に苛まれている。
 やさしくていつも笑顔で素敵な女の子。そんな子は幸せであって然るべきで、それは「幸せでいてほしい」なんて生ぬるいものではない。「幸せでなくてはいけない」のだ、彼女は。これは怒りだ。理不尽な世界への、私個人の身勝手な怒り。私たちに幸せをくれるあの子は誰よりも幸せでなくてはいけないのに、それなのにどうして。行き場のない怒りを抱くと同時に、どうしようもなく遣る瀬無い気持ちになってしまう。
 だけどこうして彼女が苦しいかもしれないと決めつけることも、彼女に押し寄せる理不尽へ私が腹を立てることも、すべては私のエゴでしかなくて、それは私たちの前で明るく笑顔であろうとする彼女の覚悟を無碍にするものかもしれない、とも思う。だからここにひっそり吐き出している。どうか、彼女がこれを読みませんように。
 毎日会えるわけではない友人のために自分ができることは本当に僅かしかなくて、ずっと考えているのに全然思いつかない。できることのほとんどは自分のしてあげたいことで、そのうちのどれだけが本当に彼女を支え得るのかは見当もつかない。それでも、何もしないなんて選択肢はなくて、一つでもいいから彼女の役に立ちたいと、心の底から思っている。
 「人生は個人戦」「死ぬときはみんな一人」と常々思って生きているけれど、私はまだこれらを本当の意味では理解していなかったのだろうと思う。個人戦と言いつつその沿道にはたくさんの声援があることも、それでもやっぱりゴールテープを切る瞬間は一人きりで、沿道からどれだけ伴走したいと切望しても、一緒にゴールはできないのだということも。最期は一人だと知りつつも、大切な人たちを一人にはしたくなくて、一人になりたくもなくて、きっと私は足掻き続けるのだと思う。生きている限り。
 彼女と彼女の家族に、これからたくさんの、本当にたくさんの幸せが訪れますように。頑張り屋で忙しい彼女に、安息が訪れますように。神頼みをしながら、自分にできることを積み重ねていくしかない。まずは彼女が助けを求めた時にいつだって力になれるよう、静かに見守ること。それから、数か月後に来る彼女の誕生日には盛大にお祝いして、生まれてきてくれてありがとう、生きていてくれてありがとうって力強くハグをしながら伝えたい。

藤の花枯れた

 おそらく国内で上位10位くらいに入るだろう、ありふれた名字が好きだった。藤を含むこの旧姓が。
 だからなのか、名字が変わることへの違和感に慣れるまでに、かなりの時間を要した。世間的には「結婚はおめでたいこと」であり、それに伴う改姓も当然おめでたいことであるようで「新しい名字は何になったの?」と、わくわくした面持ちでよく聞かれた。その度に、当事者でありながらそのおめでたさに取り残されたような気がしていた。一年の延期を経た挙式や、夫を連れた祖父母の墓参りなどを重ねて、徐々に慣れていったのだけれど。
 タイミングをつかまえるのが苦手な私のために用意された運命なのか、2022年は手放すべきものもそれなりにあった。

 まず、大好きな家族と自分との間に、どうしたって埋められない溝ができた。もうきっと、埋まることはないのだと思う。家族は今でも大好きだし、大切だけれど、その上で認めてしまった溝だった。私が自分を好きでいるために、それは認めなければならないもので、家族とのちいさな決別だった。
 ひとつ、旧姓を手放す覚悟ができてきた。

 春には挙式をした。年始に認めてしまった溝のこともあり、どうなることかと思ったが、式は恙なく執り行われた。何十年ぶりかの父の腕に触れ、たくさんの大好きな人たちに見守られながら、二人でヴァージンロードを歩いた。父は途中で立ち止まり、私の手は夫へと手渡された。
 ひとつ、新姓を受け入れる覚悟ができてきた。

 冬には転職をした。前の会社では入社当初のままの旧姓で働いていたので、おそらく新姓を知る人は一部だったと思う。電話やメールで旧姓を名乗ることも、旧姓で呼びかけられることも、きっとこれが最後だった。それから、今度は私の旧姓を誰も知らない職場へ飛び込んだ。
 ひとつ、新姓を名乗って生きる覚悟ができてきた。

 旧姓を手放し、新姓を受け入れるにつれて、私の胸に蔦を巻いていた藤の花は徐々に色褪せていった。今はもう、すっかり枯れてしまったように思う。姓を手放すものと思っていた改姓は、経験してみれば「姓」のフォルダから外付けハードディスクの「旧姓」フォルダへ移動させるようなことだった。自分のものでなくなったわけではない、けれど自分からアクセスしなければそれに触れることもない。色褪せた藤は、そんな領域に移された。

 どことなくあまいさみしさを伴うその別れは、しかし悲観的なものではなかった。先に記した通り、少しずつ気持ちを固めていくことができたからだ。覚悟が遅い私を待ってくれる時間は十分にあった。今ではもう、新姓が掘られたお墓にいつか骨をうずめることも、まあ、悪くないかなと思っている。枯れてしまった藤の花は、私の新姓にも、母の旧姓にも、それからこの時間軸のもっと先やその逆にあるたくさんの名字にも蔓を伸ばし、私たちを大きな家族たらしめてくれているような、そんな気が今はしている。

フランスプチ留学記 vol.2

 朝。時差ぼけで3時に目が覚めて空腹を持て余した昨日とは違い、起きようと思っていた6時少し前に目が覚める。街は静かで毛布も暖かく、よく眠れた。眠る前に、ホストマザーにきちんと意思を伝えられたからかもしれない。

 昨夜はホストマザーとの初対面だった。私の他にイギリスの女の子が2人、ホームステイをすることになっていて、4人で夕食をとった。キッシュとガトーショコラ。手作りのフランス料理でのおもてなしに心もお腹も満たされる。ただ、フランス語が全然聞き取れなくてすこし落ち込んでしまった。2人の女の子は流暢に会話できていたから、余計に。

 一通り会話が盛り上がった後、ホストマザーが私を見て尋ねてくれる。<<Tu as compis?(理解できた?)>> 苦笑いしつつ否、と答えると、ジェスチャーを交えながらゆっくり、簡単な言葉で解説してくれるが、それでも3割程度しか聞き取れない。もはや会話の手段もなく、向こうも困っているようだった。申し訳ない。

 夕食を終え、夜の挨拶をして各自の部屋に戻った後、しばらく自己嫌悪に苛まれた。検索ボックスに「ホームステイ 聞き取れない」「ホームステイ 話せない」と打ち込んで、さらに悲しみを増長させてしまう。悪い癖だ。ぐるぐると悩んでいたところで、ホストマザーに手土産を渡しそびれていたことを思い出す。先程の出来事で会話がかなり億劫になっていたため、一瞬明日でもいいかと思ったが、腰を上げる。こういうのは思い切りが大事なのだ。ホストマザーはキッチンにいて、私が声を掛けると手を拭いてからこちらに向かって来てくれた。

 <<C’est un souvenir de Japon…>> 小さく拙い単語を発する私の手にあるものを見て、彼女は正確に意図を読み取ってくれた。そのままキッチンのテーブルにお土産を並べて、少し話す。あなたのフランス語を理解できなくてごめんなさい、とたどたどしく謝罪する私に、彼女はやさしく励ましてくれた。「大丈夫よ、これから慣れていけば」「イギリスと違って日本は言語が大きく異なるもの、ゆっくり慣れていけばいいのよ」「寂しくなっちゃった?大丈夫?」あまりのやさしさにうるっときたが、泣きはしない。あまり意識したくはないが、冷静に考えるとイギリスの女の子たちは私より10歳ほど年下なのだった。ふがいない…。それでもきちんとコミュニケーションを図れたことがうれしかった。そのまま、先程の食卓で聞き取れなかった説明をもう一度してもらう。今度は大体理解することができた。「他に困っていることはない?大丈夫?」という問いかけに対し、大丈夫だと返す。今度こそ就寝の挨拶を交わし、部屋に戻った。

 その安心感からか、快適な睡眠を経て目覚めることができたので、頭も心もすっきりとしていた。みんなが寝静まる中そっとキッチンに起き出す。食卓にはパンやフルーツ、コーヒーが用意されていた。コーヒーメーカーでコーヒーを入れ、バナナを一本かじる。以前ボルドーの家にホームステイした時も、朝はよくこうして一人でカフェオレを飲んでいた。大抵はカフェオレ単体か、一緒にバナナ一本。そして語学学校に行く途中にあるPAULで、焼きたてのクロワッサンを買って登校するのが日常だった。

 当時と似た状況に、だんだんとかつてのことを思い出す。あの時も会話のおぼつかなさに落ち込んだり困ったりもしたが、周囲にたいへん助けられ、今ではすべてが素敵で楽しかった思い出として残っている。今回もきっとそうなるだろう。そもそも、フランス語やドイツ語が理解できなくて泣いていたのは日本の大学に通っていた時からなので、今に始まったことではなかった。落ちこぼれな自覚があって来たホームステイだ、今さら凹むこともないだろう。社会人になって身に付けた切り替えスキルをここで遺憾なく発揮する。

 もうすぐ登校時間だ。今日は初日なので、口頭でのクラス分けテストがあるらしい。正直、この聞き取り力ではつゆほども期待できないが、それでも自分らしくできることを精一杯やれればいい。昨日決意した通りに赤リップを引いて、行ってきます。

フランスプチ留学記 vol.1’

 昨日、飛行機の中でブログの下書きを書いてオフライン保存をしたはずなのだけれど、着陸してオンラインにしてみたら綺麗に消えていた。まあフライト中の暇つぶし兼記録のようなものだったので、そんなこともあるかと諦める。そんなわけでこの記事のタイトルはvol.1'(ダッシュ)だ。ちなみに反省を生かし、この記事はiPhoneデフォルト搭載のメモアプリに書いている。

 現在、フランスで2週間とすこしのプチ留学中。と言ってもまだ2日目で、昨日と今日は専ら移動で終えてしまうので、私の口はまだまともな仏文を発していない。道端で人とぶつかりそうになった時、咄嗟に口をついて出た謝罪は英語で、満足にしゃべれなくても日本語の次に話せるとしたらやはり英語なのかもしれないと思った。日本の学校教育の真っ当な成果だ。

 今はホームステイ先の街へ、5時間の列車移動中だ。本来2時間程度で着くものの、ストの影響で3日ほど前に「あなたのチケットはキャンセルされました!」とメールが来たので、大慌てでなんとか代わりにとったのがこの列車だった。前のチケット代は戻ってくるらしいが、出発駅を変えたことでホテルのキャンセル代と新たなホテルの宿泊代は余計にかかった。だがこの国では私が異分子なので、これが文化と言われれば受け入れるべきは私の方だろう。案外このイレギュラーにわくわくしたりもしている。

 とはいえ大抵のイベントごとは直前になると多くの不安を与えてくるもので、今はホストファミリーとの初対面や、明日からの語学学校への登校が怖い。私のような怖がりは、一度怖いと思うと連鎖的にあらゆるものがおそろしく思えてしまうのでよくない。電車で斜向かいのお姉さんがしている電話の声すら誰かを咎めるものに聞こえてきてしまう。車窓から見える天気が薄曇りなのもよくない。パリの冬は大概このような天気と聞いたが、これから向かう街はどうだろうか。私の精神状態のためにも、ぜひ晴れていてほしいところだ。日本では自他共に認める晴れ女なので、曇りや雨に対する耐性が低い。

 大抵のことを怖く感じるのと同じくらい、しかし大抵のことは経験してみれば楽しかったりもする。怖い怖いと半べそをかきながら出かけた後に楽しかった!と笑顔で帰ってくる私を母は何度見てきたことだろう、今回もきっとそうだよと励ましのLINEをくれた。

 あと10分もしないで列車は目的地に着くだろう。ボックス席は現地の女の子2人組と相席で、1人は赤いセーターを着て1人は赤いネイルをしているのがとてもよかった。恐怖心を乗り越えるアイテムとして、明日の初登校には私も赤リップで挑もうと思う。

信頼はもうとっくにそこにあって

 6年弱勤めた会社を辞めるまで、あと5営業日。正確には年末退社だけれど、最後のひと月は全部有休にした。それでも使いきれなかったぶんは何十日と残っていて、次の会社では休みもうまくとれたらいいなとぼんやり思う。

 新人時代に育成してくれた先輩が周囲に声をかけて送別会をひらいてくれた。ご時世柄、今の自分のチームでは送別会を行わないので、私にとって唯一の、それでいて特にお世話になった方々が集まってくれたとてもありがたい時間だった。

 女性も若手もいない職場で互いに距離を測りかねていたこともあり、私が彼らを好きだと言えるようになるにはだいぶ時間がかかってしまった。新人の頃は「この職場の好きなところはトイレの綺麗さだけ」なんて言ったりもしていたが、ほんとうはちゃんとみんな私を気にかけてくれていて、全員で私を育て上げてくれた。チームや職場が変わっても尚、こうして集まってくれることが何よりの証拠だと思う。

 会社を辞めることになって、まず頭にあったのは申し訳なさだった。ここまで育ててもらった恩があるし、ちょうど役職も上がってこれからの活躍を期待されているところだった。おまけに職場は万年人手不足。先輩方を裏切るようなかたちになってしまった謝罪と、どうしても次の会社でやりたいことがあるという意思を、絶対に伝えなければと思っていた。

 緊張しながら退職する旨を伝え、これから謝罪と弁明を、と思ったところで、先輩にこう言われた。

「いいじゃん。自分でしっかり考えて決めてくれたことだろうし、応援するよ」

 それは間違いではない。たしかに自分でしっかり考えて出した決断だし、そのことをこれから弁明しようとしていたのだ。だけどそれを先に相手から言われるとは思っていなかった。続いて謝罪を告げ、頭を下げたところで「その必要はない」とも言われた。ここまでストレートな信頼をぶつけられたことに、正直驚いてしまった。

 積極的に人間関係を構築しようとしてこなかった自覚がある。新人時代でも気が乗らなければ飲み会を断っていたし、プライベートのことはほとんど話さないし、上司との面談で「何か悩みある?」と聞かれても「ありません」としか答えなかった。たとえ大きな悩みがあったとしても。やるべき仕事をきちんとこなせば問題ないという考えで、胸のうちを晒すことをしてこなかった。だから会社を辞めると伝えるのは、おそらく私が先輩に告げた、最初で最後の自分の意思だった。そこでようやく「信じてほしい」という思いが生まれ、あの反応をもらい、自分がもうとっくに信じてもらえていたことを知った。いつもいつも、人の厚意や好意に気づくのが遅い。

 他の先輩方も(本心のあれやこれやはあるだろうが)みな同じような反応で、誰も彼も背中を押してくれた。おかげで絶対に果たしたかった円満退社を無事迎えられそうで、安堵している。

 一本締めで激励をもらい、JR某駅の改札前でひとりひとりに頭を下げた。「頑張るんだよ」「でも身体は壊さないようにね」「帰ってきたくなったら会社にポジション空けてやるよ」と口々にやさしく送り出され、感動で泣きそうになってしまった。それでももちろん涙は出てこない、職場では絶対に泣くなって言われて育ってきたから。

 いつか歳を重ねて二十代を振り返ればそこには、葛藤しながらもがいてもがいて前に進み続けた私がいるだろう。そんな日々でもちゃんと、しっかりひと区切りつけられたことは、心配性な私にとって間違いなく大きな自信になる。自分の記憶や仕事ぶり、人の厚意に自信がなくなった時、またこれを読んでそのことを思い出せたらいい。