できたてガパオライス

ゆすらの日常。毒にも薬にもならないことばたち。

海に近いあの街は、夏の匂いがした。

 江の島にほど近いあの街の、夏の夜の匂いを、よく覚えている。

 惰性で深夜アニメを流しつつ横になった、部屋の床の匂い。東京の暑さに慣れなくて、上京して初めて夏バテになった。ぐったりと凭れた頬に伝わるフローリングのつめたさと、開け放した窓から流れ込む夜風の涼しさから、夏の匂いがした。

 ディスコ・キッドの前奏に乗せて流れてくる、汗と風の匂い。

 はじめての大学の学祭。私たちは浴衣を着て、夜のステージにいた。何曲か演奏した後、汗だくになりながら最後に演奏したのが、アンコール曲のディスコ・キッドだった。一度静かになったステージの空気を振るわせて、ピッコロが始める前奏。そこから少しずつ、吹き始めるパートが増すたびに、夏の匂いが濃くなった。

 友人の家で深夜に恋ばなをしながら塗った、ペディキュアの匂い。

 ひとり暮らし同士、時間を気にせず会いに行けた。その日も深夜から集まって、手土産に駅前で買ったミスドを2人でつまみながら、互いの好きな人の話をした。「恋が叶うように」って、2人でピンク色のペディキュアを塗った。「においきつい!」って言いながら窓を開けて、夏の夜風を胸いっぱいに吸い込んで、笑った。

 家族や制服に守られていた地元を出て、海に近い街で暮らし始めたあの頃、私はたぶん今よりもっと不器用だった。今以上に愛想笑いが苦手で、人から急に距離を詰められるのが苦手で、お酒で我を忘れてしまう人が苦手だった。湘南ナンバーだらけのあの街を早く出て、地元に帰りたかった。

 だけど今あの街の匂いを思い出そうとするとき、浮かんでくるのは穏やかな夏の夜風ばかりだ。いつの間に潮の香りに絆されたのだろう、気づけば私のこころは、あの街の夏で満たされていた。

 記憶は捻じ曲がるものだと思っているし、ひとは今を肯定するためにどんな道に進んでも最後は正当化してしまう生き物だと思っている。だからこの街と自分との間にある違和感が殺される前に、自分の本来いるべき場所に移らなくてはと、思っていた。日がな何かに追われているように、焦っていた。本来いるべき場所がここではないどこかにあると、信じていた。

 今だって、自分のいるべき場所に正解を見つけた自信はない。たぶん、間違っている。だけどあの4年間は、あの街で過ごした最後の学生生活は、確かに自分にとって必要なものだったと、今は思う。

 あの街が好きだ。湘南ナンバーも、海が近いところも、しらすがおいしいところも、新宿が遠いところも。全部好きだ。

 消えない違和感を抱えたまま、怒ったような泣き出しそうな顔をしていたあの頃の自分をあの街ごと、夏の匂いで抱きしめてあげたい。

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忘れたいことばかりでもなかったよ 握りこぶしをやんわりひらく